News for 8月 20th 2010

第1回つばさ学会研究会基調講演より

『つばさ』を名画になぞらえて

初版&若干の修正 2010.8.20

 いつも文字を書き連ねてばかりなので、今日は趣向を変えて視覚に訴えることにしました。私ごとですが、ここ数年、人に連れられて美術館に行っているうちに、今年ボストン美術館展を見たあとぐらいから、西洋の絵画にハマりはじめまして、特にマネの絵を気に入っています。そこで今日は、『つばさ』は「こんなドラマだった!」というのをマネの絵などになぞらえてみたいと思います。(以下は、当日喋った内容よりずっと丁寧で整ったものになっています。)

描いてはいけないものを描いた『つばさ』

 1枚目は「描いてはいけないものを描いた『つばさ』」と題して、エドゥアール・マネの「草上の昼食」(1863年)です。この絵は発表時には不道徳であると非難ごうごうでした。それと言うのも、それまでは主に神話を題材にして女性の裸を描くのが暗黙の約束だったのに、この絵はその時代の生身の女性の裸を描いてしまったからです。しかも女性が裸でいるのが自然な状況ではなく、今ここで明確な意思をもって裸になりましたよと言わんばかりに、ドレスが女性のかたわらに脱ぎ捨てられています。
 当時のパリでは男女4人で森へピクニックに行くということは、2組のカップルがそれぞれそういう行為に至るということが公然の秘密だったそうで、みんなが知っているけれど口にはしないでいたパリという都市の生活の現実を、白日の下にさらす絵を描いてしまったわけです。
 この絵の裸の女性は視線をしっかりこちらに向けていて、彼女の豊満な肉体に目をやったり、男女4人組が森で為すことに思いを馳せたりする鑑賞者の心を見透かしているかのようです。それまでの神話を題材にした裸体画では、女性の視線がこちらに向けられていないため、男性が安心して女性の裸を鑑賞する愉しみを味わえたのとは大違いなのです。
 この絵は、王立アカデミーが審査するサロンという当時の画家の登竜門であった展覧会に出品され落選します。ところが、その年は落選者が多かったためにアカデミーと対立していたナポレオン3世が落選展の開催を命じるというハプニングがあり、この絵も多くの人々の目にふれることとなって、一大スキャンダルを巻きおこしたのです。
 当時は写真が一般大衆にも身近なものになってきて、モデルを正確に写すという点で絵画は写真には及ばず、その存在意義がゆらぎ出していました。天使など見たことがないものは描かずに、現実に存在するものを描くというクールベのレアリスムの影響も受けていたマネが、絵画に何ができるかを模索し、おそらくスキャンダルになるのも狙って、パリに暮らす人々の現実を描いた作品です。マネの表現は遠近法を破ったり、絵の具もベタッと平面的に塗られ、筆の運びの跡も残っていたりして、それまでの伝統的な立体感を表す表現とはまったく異なるため、下手クソと非難されました。しかし、こうしたマネの挑戦が、印象派の勃興を導いたのでした。ちなみにマネは同じ年に「オランピア」という娼婦のヌードも描き、2年後のサロンに出して入選しますが、これは「草上の朝食」のスキャンダラスな面をさらに尖鋭化させた作品で、怒ってステッキを振り回す客から絵を護るために高い場所に展示されたそうです。
 加乃子という生真面目な視聴者が受け入れにくい存在がヒロインに次ぐ主要人物となり、どの登場人物にも欠けたところがあって安心して言動を見ていられない危うさがあり、ベタなギャグやサンバなどやはり生真面目な視聴者には単純に楽しむことを恥ずかしい気持ちにさせる演出にあふれ、そればかりかこのドラマにのめり込んでいくうちに見る者もテレビの外の安全地帯から引きずり出されて見る者自身の心の闇のような部分に向き合わされたりする『つばさ』は、まさにマネの「草上の朝食」がスキャンダラスであった面と似通っていて、「描いてはいけないものを描いてしまった」と思わずにはいられません。

一見稚拙に見える『つばさ』

 2枚目は「一見稚拙に見える『つばさ』」と題して、アンリ・ルソーの「戦争」(1894年)です。実はマネにハマるきっかけとなったのはNHKのBSでやっていた『巨匠たちの肖像』という画家を紹介するシリーズ番組だったのですが、ルソーについてはその番組を見ても、けったいな絵としか思えず、何じゃこりゃというのが正直な感想でした。ところが先日、オルセー美術館展に行って実物を見て、完全に心を奪われてしまいました。「一見稚拙に見える」という意味ではピカソでもよかったんですが、今とても気に入っているのでルソーの絵をもってきました。
 この絵もルソーらしく、遠近法度外視、立体感の感じられないペタッとした表現、人間の顔は真正面か真横のみというヘンテコな絵なんですが、実物を目の当たりにしたら、心をつかまれ、グッと引き込まれてしまいました。一見稚拙でいい加減な絵のようですが、大きなカンバスのどこにも不真面目なものはなく、画家の全身全霊が込められているのが伝わってきます。
 ルソーはパリの税関に勤めながらの日曜画家で、初めて絵を発表したのも35歳と遅く、この絵を描いた50歳近くになって税関を辞めて画家に専念します。今でこそ天才と呼ばれていますが、独自路線で描く絵がすべてこんな調子で、足で描いたんじゃないか、子供の落書きみたいとボロカスに言われ、絵を買い上げられるどころか嘲笑の対象でした。しかし本人はいたって大真面目。空想全開で、こんな絵ばかり描いています。この「戦争」もピカソの「ゲルニカ」に影響を与えたとも言われる今でこそ超有名な作品ですが、審査のない展覧会に出品されたあと、第二次世界大戦中に発見されるまで行方が不明だったとか。
 こんな画風のルソーの絵が『つばさ』に通じているのは言わずもがなでしょう。ベタなギャグやサンバばかりか、娘の恋愛で親父が相撲をとったり、ドラキュラ姿で登場する浪岡、その浪岡の大音量のギター音をマシンガンの襲撃と身構えるつばさとヒロリン、書割を使った回想シーン、身内ばかりの歌合戦、旦那と奥さんが攻守ところをかえて自宅に篭城合戦、アドリブのオンパレードに千代まで突如駆り出される大衆演劇などなどなど、見た目のリアリティを取っ払ったストーリー展開は、グダグダで訳がわからないという酷評を浴びました。
 ルソーの絵同様、一見稚拙に見える『つばさ』ですが、そのバカバカしさに手抜きはありません。真剣に大真面目につくられたバカバカしさがクセになる。そればかりか、そのバカバカしさが心象風景のように感じられるとき、ドラマは観る者ひとりひとりの心のリアリティに共鳴し、観る者ひとりひとりの人生経験に応じて、その人ごとの唯一無二のドラマとなり、心を鷲づかみにしてしまいます。
 魔術的とも言われるルソーの絵の魅力はまさにオンリーワンですが、私もそうだったように、写真になったものをパッと見て、万人が一発で好きになる絵ではありません。ふざけて描いたのか、下手くそかと思うのが正直なところでしょう。オルセー展には、ルソーの作品はもう1枚「へび使いの女」というのが来ていて、これもまた凄くいいんですが、こちらは稚拙な感じがもっと少ないのと、ある程度ルソーが世間に評価されてからの作品なので、ボロカスに言われていた時代の作品こそ『つばさ』には似合うと思い「戦争」にしました。多部ちゃんが公式サイトのtabesha 219でオルセー展を近々見に行きたいと書いてましたが、ルソーの2枚の絵を目の当たりにして何を思ったのか、ちょっと興味があります。

リアルに見ると変なところもある『つばさ』

 3枚目は「リアルに見ると変なところもある『つばさ』」と題して、再びマネの「フォリー・ベルジェールのバー」(1882年)です。フォリー・ベルジェールというのはパリのミュージック・ホールのような場所で、中央に描かれた物憂げな、しかし魅力的な若い女性は2階席にあるバーのウェイトレスです。ウェイトレスの後ろはずっと大鏡になっているので、背景の観客席は鏡に映ったものです。ですから、右手に描かれた女性の後姿は、このウェイトレスの後姿が鏡に映ったものなのです。そうすると右端に描かれた身体が切れている髭の紳士も鏡に映った姿なわけで、本体はウェイトレスの正面に立っているはずなのですが、そのような男性は描かれていません。リアルに見ると変な構図の絵なのです。しかし、そんな男性がこのウェイトレスの正面に立っている後姿など、誰も見たくはありませんね。これでいいのです。
 鏡に映ったウェイトレスの後姿が本人より向かって右側に描かれているということは、画家はこの絵の右端のほうから彼女を見ていることになります。その正面に紳士が立っているならば、鏡に映ったウェイトレスと紳士はこの絵のようになります。その一方で、ウェイトレスの実像は、彼女の真正面から男性を取っ払って描いています。つまり実像と鏡に映った像とでは、視点と人間の配置を変えた構図になっていて、その2つが混在しているのです。この絵は51歳で生涯を閉じたマネの最後の作品で傑作として評価されていますが、発表当時は構図のこうした空間的な矛盾を批判されたようです。
 実は、ここに描かれた女性の仕事はバーでのお給仕だけではありません。この場で紳士のお眼鏡にかなえば、ホールの出し物が引けたあと、お持ち帰りされて夜を共にして生活費を稼いでいたのです。そう知ると、彼女の物憂げな表情が意味するものにも納得がいきます。いや、むしろ紳士のお眼鏡にかなうにはもっと魅力的な表情をつくらなければいけないはずで、少し変ですね。もしかしたら後姿だけ映った鏡の虚像の世界では、嫌々ながらとびっきりの表情を紳士に見せていて、正面を向いた実像の世界では、彼女の心の内を表情として表しているのかもしれません。
 マネが視点と配置を変えた矛盾した描写を混在させ、敢えて視覚的なリアリティのない構図にしてまで何かを描こうとしたように、『つばさ』も論理的に考えれば、おかしなところは至るところに散らばっていますが、そうまでして描きたかった心情のリアリティがあります。それが何なのか、観る者ひとりひとりが解釈したり感じ取ることができ、観る度に新たな気持ちにさせる、そんな多面性と世界の広がりが、表面的なリアリティを犠牲にすることで生まれているという点で、この絵に通じるものを感じます。
 ちなみに物を見る視点を変えた描写が混在している絵としては、今回のオルセー展に来ているセザンヌの「台所のテーブル」(1888~1890年)という静物画が有名で、3段オチなら画家も3人にしたほうが座りがいいかなとも思いましたが、「フォリー・ベルジェールのバー」のほうが何年も前に発表されていて、ドラマ同様、人物を描いているということ、そして何よりも気に入っているマネの絵なので、こちらを選びました。

 以上、にわか絵画ファンの解説ですので誤りも多いかもしれませんが、その点は大目に見てやってください。

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Edited: 8月 20th, 2010